人は見ためで判断するな、とは言うものの、身だしなみに関しては、ほとんどの人が「気にした方が良い」と言う。
それはそうだと私も思う。印象、というのは結構大事なポイントで、第一印象で相手への態度を決めると言われているくらい、相手の心を変える威力を持っていると思う。
そういう意味で、私は自分が身につけるものには気を遣いたかった。
というか、社会人になってから、気を遣わないといけないのだな、と悟った。
私が勤める会社は、私服勤務が許されている。
日がな1日パソコンと向き合って、データを打ち込む作業をするのが私の仕事だった。
特に客が来るわけでもなく誰かの前に出る必要も無いので、基本的に私服で出勤していた。
入社当初こそ、そうはいっても働きに行くんだし、という事でそれなりにフォーマルカジュアルぐらいの服装は心がけていたのだが、なんといっても周りの先輩社員や上司たちが、Tシャツやアロハシャツ、パーカー、スウェット、あげくの果てにはビーチサンダルで出勤しているもので、すっかりバカらしくなってしまい、気付けば私もラフな格好で出勤するようになってしまった。
そして、ある日、ジーンズにパーカーという出で立ちで出社して、帰りに用事があって訪れた店で「学生さんですか?」と聞かれたのをきっかけに「このままではいけない」と思うようになった。
最初こそ「学生さんだって!」と若く見られた事を喜んでいたのだが、よくよく考えたら、私の顔というよりも、出で立ちを見て「学生」と判断されたらしいというのに気付いてしまったのだ。
このあまりにもラフすぎる格好、出で立ち、そして、おそらくそれに伴って滲み出る立ち居振る舞い、全てが総合して「学生っぽさ」を醸し出してしまったのだろう。
この事実に気付き、私は愕然とした。
社会人の女性たるもの、もっとビシッと決めて、キャリアウーマンのごとくキビキビと働いていなくては、と思った。そうでなければならない、という事はないが、私はそうありたかった。
それなのに、つい会社の緩い雰囲気に呑まれて、私はラクな方に、ラクな方に流されてしまったのだ。
このままでは、ずっと「学生さんですか?」と聞かれ続けることになるかもしれない。
しかもそう聞かれた後にまじまじと顔を見られて「あ、やっぱ違うか」などと思われた日には顔から火が出るほど恥ずかしい思いをするに違いない。
そんな大人にはなりたくなかった。
これはなんとかしなくてはならない。
そして私は子どもっぽい自分から脱却するために、我が出で立ちを見直すことにした。
着る服、メイク、髪型など、手を入れなければならないところは多数あったが、ひとつ、気付いた事があった。
時計だ。
私の中の颯爽とビジネス街を闊歩してシャキシャキ、バリバリ働いている女性は、皆良いブランドの腕時計をはめて、常に時間にシビアに仕事をこなしているイメージだった。
それが自分はどうだ。
腕時計なんて、おそらく学生の時に海外旅行する時に一時的にするぐらいで、しかもそれだってその辺のスーパーかデパートで1,000円セールなどで買ったすぐ壊れるようなもので、今は時間はスマートフォンでしか確認しないという、この有様だ。
これでは夢見る憧れの大人なキャリアウーマンには程遠い。
せめて、良い時計を持って気合を入れ直そう、そう思った。
右も左も分からずに、とりあえず、高そうな時計を売っていそうな店にフラフラと入ってみると、ロレックスと書かれていて、こりゃ誰でも知っている超有名メーカーだわ!と思った。
そしてこういう店の時計は、間違いなく高い。
値段を見て絶望した。
確かにとても良い質で、素敵なデザインのものがズラリと並んでいたが、どれもこれも、とても手の出ない価格だった。
店員さんが親切に近づいてきて、話しかけてくれたが、私は一旦店から出て頭を冷やそうと思い、店を後にした。
たまたまその場所が世界の有名ファッションブランドの店舗が軒を連ねているエリアだったので、頭を冷やすついでに、最初から買わないつもりで、参考のために色々な店舗を覗いてみようと思った。
隣にはイタリアの老舗ブランド、ブルガリが店を開いていて、時計も置いてあった。
「ブルガリ・ブルガリ」という時計が、とてもかわいらしく、しかししっかりと文字盤のフチに「BVLGARI」と書かれていて、ブランドアピールにも余念が無い。
そのお向かいには、これまた世界的に有名なフランスのブランド、カルティエが「ミスパシャ」というとても素敵な時計を並べていた。しかしまたもとんでもない額にたまげて、私は尻尾を巻いて逃げ出すことになった。
なかなか20代の一般的なOLには手が出ないなぁと落ち込んでいたのだが、店舗の雰囲気が少しカジュアルになり、入りやすそうだな、と思って見上げるとハミルトンの店舗だった。
つい入りやすい雰囲気に誘われて店内に入ってみると時計も並んでいた。値段は、確かに高いが、決して手が出ないほどではない。
「バグリー」と名付けられた時計はとても使い勝手が良さそうだった。ビジネスシーンなどで時計が見られるような人には、最適かもしれない。シックで、クラシカルな雰囲気で、それでいてモダンさも持ち合わせている、不思議なバランスのとれた時計だった。
他にも北欧のブランド、ダニエルウェリントンが、かなりお洒落で気に入ったのだが、価格も、このデザインでこの値段!?というくらいリーズナブルで、ほれ込んでしまった。
40mmもある文字盤がなんだかレトロな雰囲気で、ゴロッと感がたまらなく可愛い「クラシック」と名付けられた時計はカジュアルシーンにピッタリなイメージで、「ダッパー」はフォーマルな場面でもつけられるような、シックで落ち着いたイメージのデザインだった。
このブランドの腕時計は要チェックだな、と思いながら店を出て、もう少し探してみることにする。
しかし、カルティエやブルガリ、ロレックスなどの値段に圧倒されて、ハミルトンやダニエルウェリントンの価格を「安い」と感じている私だが、よく考えると、学生時代1,000円やそこらの時計をつけていた身からすると、ハミルトンだってダニエルウェリントンだって、かなり高い。
ブランドものがこんなにするならば、ノンブランドのものでも良いのではないかな、と一瞬心が揺れた。
が、しかし、違うのだ。
ここはあえてブランドものの腕時計にこだわることで、「良いものを身につけている」という自覚を持ち、大人の女性への階段を上るのだ、と自分に言い聞かせた。
だから、私は、今回はブランドものの時計にこだわりたい。
海外ブランドだから高いというのもあるのかな、そう思い、国内のブランドにも目を向けてみることにした。
まず、王道ではあるが、カシオの時計だ。「シーン」というシリーズが、大人っぽくてオンオフどちらでも使えるデザインという印象だった。オフィスでも使えるし、プライベートでも気兼ねなくつけられそうだ。
続いてセイコーの時計も見てみたが、こちらも自信満々の時計がずらっと並んでいてなかなか良かった。「ルキア」は小洒落で、それでいて品があってスタイリッシュなデザインで、どんな場面でも使えるし、フェミニンな印象だった。「ティセ」というシリーズの方が可愛らしさが強調されており、デートなどのシーンでつけても良いかな、と思えた。
シチズンの時計も見てみたが、「エクシード」や「キー」といったシリーズは、オフィスでもカジュアルでも使える雰囲気で、ひとつ持っていれば色々なシーンで活躍してくれそうだった。
日本の時計ブランドはどれも数万円から10万円前後で手に入れる事ができて、20代の私には身の丈に合っているという意味でも、丁度良いような気がした。
社会人デビュー祝いや、成人祝いなどで、親戚などからもらう事が多い時計で、私にはなぜそのような恩恵が無かったのか、と思わなくもなかったが、無いものは無いのだから仕方ない、自分で買うしかないので、気に入ったものを探そう、という事で、私は一応予算を10万円前後ぐらいと決めて、その中で自分に合った良い腕時計を見つけ出すことにした。
本当はフォーマルシーン、ビジネスシーン、それからカジュアルなシーンで、いくつか使い分けるのが大人な「できる」女性なのだと思うが、果たして10万円でそれが叶うのか、もし叶えば揃えるが、無理そうならば、良いものをひとつ買って大事に使おう、と思った。
そして、目星をつけたブランドショップを回って、じっくり選んだ。
店員さんに相談したりすると、リーズナブルで買い求めやすく、それでいてセンスの良い時計をたくさん紹介してくれて、案外私の予算内でも素敵な時計が買えそうだった。
私の場合は、ビジネスシーンというほどのビジネスシーンに恵まれるような場面は少なかったので、職場で使うものとフォーマルな場面で使うものは同じデザインのシックでシンプルなのだが、少しだけ遊び心を効かせてあるようなものを選び、カジュアルシーンで使えるものは、プライベートでも職場でも使えそうな、使いまわしの効くタイプのものを選んだ。
2本合わせて12万円強と、予算を若干オーバーしてしまったが、良いもので気に入ったものだから、それで良しとしよう。
納得して買ったもので、大事にしようと決めて持ち帰り、まして「良いもの」という思いがあるもので、私はその時計を身につけるようになってから、確かに立ち居振る舞いや、合わせる服装、メイクなどを変えるようになった。
腕時計に合わせる、というわけではないのだが、この時計をするに相応しい人間になろうという深層心理がどこかで働いていたのかもしれない。
気持ちがシャンとして、凛とした女性を目指そうという思いが滲み出てくるようだった。
その思いや変化は周囲にも伝わったようで、「なんか変わったよね」と言われる事が多くなった。
出かけても、もう「学生さんですか?」などと聞かれることはなくなり、年相応の大人の女性の扱いを受けられるようになった。
異業種交流会というイベントに知人から誘われた時も、多くの魅力的な男性に声をかけてもらい、連絡先を交換した。
中には私が身につけていた時計に注目して「それ、自分も同じブランドの時計愛用してます」と言ってくれた方もいた。
ブランドの価値が分かり、それを身につけている、という印象を与えることができたらしく、それだけで自分という人間のグレードが上がったような気分になった。
良いものが何か分かること、そしてその良いものを身につけること、これが真の大人への階段だったのだ。
この異業種交流会で連絡先を交換した男性の何人かからは別日に食事に誘われて、そのうちの更に何人かからは、交際を申し込まれた。
割と急な展開だったので、面食らってしまったが、皆さんに少しの間答えを待ってもらっている。
中には真剣に結婚を前提に交際してほしい、と申し出てくれる人もいて、しかもその場で自分の年収が1,000万円以上で、十分養っていけるとまで言ってくれた方もいた。
超セレブとまではいかないかもしれないが、上流階級の生活ができる事は間違いない。
これも、良い時計を身につけるようになったおかげかな、と思うと、私は一生懸命時計を選んで、そしてその時計をつけるに相応しい人間になれるよう、自分磨きも頑張って、本当に良かったと心から思った。
会社の社員たちは相変わらずで、さすがに転職を考えていたころだったので、このまま寿退社して主婦になるのも悪くないかな、と思い、もっとも真剣に私に交際を申し込んでくれた方と、結婚は前提だけれど、まずは普通にお付き合いをするところから始めさせてもらうことにした。
他の方には少し申し訳ないけれど、縁が無かったという事でお断りをさせてもらい、私は、彼と交際を始めた。
とても優しく紳士的な人で、何よりもリッチだったし、私には一銭も出させようとしなかった。
「これから養おうと思っている人にお金を出させてどうするんだよ」と笑いながら、いつも美味しい食事へ連れて行ってもらったり、2人で観劇したり、遊園地へ遊びに行ったりした。ただリッチなだけでなく、人間性にも惹かれていき、私はその約半年後に彼から贈られたプロポーズの言葉にその場で「もちろん」と返答した。
かくして、私は幸せいっぱいの人生を手にした。
それもこれも、大人な女性を目指し、少し背伸びして買ったブランドものの時計のおかげだ。
小さいことかもしれないが、私という人間に、そしてその人生に、影響を与えたのだから、これはすごい事だなぁと思った。