バレンタインデーに本命チョコレートを渡す。
この行動を起こすのにドキドキして顔を赤らめてしまい、前夜にはおちおち眠る事もできないほど緊張するなど、小学生の女の子にしか有り得ない事だと思っていた。
それが、今の私は、その小学生の少女と同じ状況に陥っている。
会社で気になる男性ができて、食事などに行って少しずつ距離を縮めてきた。
私が誘っても嫌な顔をせずに乗ってきれくれるし、2人きりで食事に行くのも躊躇しないところ見ると、かなり脈ありだと思っている。
だがしかし、それでも私は「いける!」と確信して勢いに任せて告白するという行為に踏み切れなかった。
本気で好きになってしまったからだ。
失敗しても良いや、という「えいや」の気持ちで当たって砕けろ精神を発揮するのは躊躇われた。
勇気を出して告白したところで、もし失敗してしまったら、今の、この折角良い感じに築き上げた関係が壊れてしまう。それはとても心苦しく、寂しく、恐れるに値することだった。
彼とは同期で入社したものの、部署が違ったために、入社当初はあまり関わる事はなかった。
それが、入社して4年も経ってから、全社でおこなわれた納会でたまたま近くの席になり、話が弾み、こんなに仲良くなれるとは思わなかったよね、と言いながら一緒に帰り道を歩いたのだ。
その時から私の心はかなり彼に好意を抱いていたが、それからちょくちょく何人か仲の良い同僚たちで飲みに行ったり、同期会を開催するようになり、距離を縮めていった。
彼は、なんというか、とても楽しい人だった。
いつでも笑顔だった。
そして、人の気持ちを考えられる人だった。
他の人に対してとっている言動を見ていると、それがよく分かった。相手の気持ちを考え、相手の心身の調子を汲み取り、相手の好き嫌いや性格や癖などをよく覚えており、絶妙なタイミングで相手のかゆいところに手が届くような言動をとっていた。
まるで人間観察のように彼の事を追い見つめる日々だった。
そんな彼の事を本気で好きになるのに、さほど時間はかからなかった。
私はどんどん自分が彼に惹かれているのを自覚して、妙な気分になった。
フワフワと浮き足立ったような、ドキドキと落ち着かないような、ワクワクと楽しくて仕方がないような、そんな気分だった。まるで子どもみたい、と自分の事を少し笑った。
本当に、こんな気持ちになったのは何年ぶりだろうか。
もう、何年も何年も前の話のようだ。
幼稚園生とか、小学生とか、その頃に好きな男の子ができた時に感じる気持ちに酷似していた。
恋に恋するというか、打算なんてどこにもないというか、損得ではなく、純粋に「好き」という気持ちだけを抱くという感覚だ。
彼の屈託のない笑顔を見つめていると、私まで幸せな気持ちになったし、彼と付き合いたいとか、結婚したいとか、そんなことよりも何よりも、ただ、ただ彼の事が好きだった。
単純に片思いを心から楽しんでいただけだったのだが、季節が巡るのは早いもので、バレンタインデーの時期になってしまったことに気付いて、彼に本命のチョコレートをあげようか悩み始めた。
渡さずにスルーという選択肢も頭に浮かばないではなかったが、通常の生活で告白するタイミングも掴めない私にはバレンタインデーはまたとない機会だった。
この機会を逃すなんて、そんなアホな事はないと自分に喝を入れ、バレンタインデーという絶好のチャンスを最大限に活用することにした。
決めれば早い私、まさか手作りのチョコレートを渡すというところまで小学生の真似事をする必要は無いかとも思い、彼の好きなチョコレートを全力でリサーチして、私の全身全霊の想いを託して渡そうと決めた。
そうなれば、リサーチだ。
私はすぐに態度に出るので、何人かの同僚たちは既に私が彼の事を好きだと思っていると知っている。その同僚には女性もいれば、男性もいた。彼らの力を借りれば、きっと上手くいく、と、私はそう確信した。
特に女性の同僚たちは人の恋愛事情には興味津々のため、逆に彼女たちの方から「で、バレンタインデーはどうするの?」と聞いてきた。
「告白するかどうするかはまだ決めてないけど、どうせなら喜んでもらいたいから、好きなチョコレートをあげたいなぁとは思っているよ」
と告げると(本当は告白する気満々ではあったが・・・)、彼女たちは「じゃあ私たちが協力してあげる」とはりきった。
女性の情報網はすごいもので、男性の同僚たちの協力を仰いであっという間に彼の好きなチョコレートをリサーチしてきてくれた。
といっても、その成果はそこそこ程度のもので、彼が特に好きなチョコレートというものは無く、甘いものは普通に好んで食べるが、チョコレートはどちらかというとビターな方が好き、という事と、抹茶味のチョコレートは少し苦手、という事ぐらいだった。
ブランドやメーカー、国などについてはこだわりは無さそうだった。
逆に、このくらい無頓着な方が彼らしくて良い、私はそう思った。
それならば、ちょっとビターテイストで私が心から美味しいと思うチョコレートを探してこようじゃないの。
これ、と決まったものが無いと分かったら、彼に新しいチョコレートとの出会いを楽しんでもらえるように全力でチョコレート探しをしようと決めた。
そして、私は鼻息荒く、バレンタインフェア真っ盛りのデパートの催事場へと繰り出した。
バレンタインの時期は良い。
なんたってデパートの催事場のチョコレートコーナーは、ほとんどの店舗で試食を実施している。
普通に眺めながら回っているだけでも次から次へと試食のチョコレートの欠片を差し出す手が伸びてくる。
私は色々なチョコレートをモリモリ食べながら、真剣に彼にプレゼントするチョコレートを選んだ。
チョコレートの国といえばベルギー。王道のベルギーチョコは、流石に安定の美味しさで、特にミルクチョコレートは変な甘さがなく上品でまろやかな味わいだった。
フランスやイタリアだって負けてはいない。ベルギーチョコよりも甘さの主張が強い傾向にあるようだったが、それでも甘党にはたまらない絶妙な甘さ加減だった。
珍しいというか、あまり日本のデパートでは見かけないチョコレートは、スイスのものだった。こちらも上品な甘さでなかなか美味しかった。
しかしやはり、チョコレートの王様、ベルキーチョコが良いかな、と思い、歩いていると、オーストリアのザルツブルグで取れた塩を使った塩チョコレートという珍しいチョコレートを発見した。
試食させてもらって、瞬間的に「コレだ!」と思った。
ビターチョコレートのほのかな苦みと、チョコレート本来の甘さのバランスが良く、微かに感じられる塩の風味がアクセントになり、とても美味しかった。
聞けば、このバレンタインの時期にしか輸入せず、通常は現地ザルツブルグでしか買えないらしい。
そんな話まで聞かさせたら、これを買わないわけにはいかないだろう。この喜びを共有したい!と思い、私はほぼ即決でそのチョコレートを購入した。
無事渡すものも決まり、チョコレートを渡しながら想いを告げるというのも決意したはずだったのだが、いざ前日になると尻込みしている自分に気付き、やっぱりやめようか、いやいや決めたことだし、このチャンスを逃したらもう告白するタイミングは無いぞ!と叱咤激励し、今一度決意を固めて布団に潜り込んだものの、私の心はバタバタと跳ね回っていた。
好きな男の子に意を決して告白する前夜の小学生女子さながらの緊張度合いに、我ながら呆れながら、何度も寝返りをうち、眠れぬ夜を過ごした。
そして、バレンタインデー当日。
ついに運命の日がやってきた。
朝から、心臓が口から飛び出しそうなぐらい緊張しており、会社についてからも意識はどこか別のところを飛んでいるようで、何を聞いても、何をやっても上の空だった。
いつ渡そうか、そのタイミングも最初から終業後、と決めていたのに、昼休みに彼とバッタリ顔を合わせてしまってドキッとした。というかヒヤッとした。
しかし、その瞬間とっさに機転を利かせて「あ!!なんだ!こんなところでバッタリ会うなんて!折角チョコ持ってきたのにデスクに置いてきちゃった!終業後に渡しに行くから待っててね」と一気に伝える事ができた。
終業後と決めてはいたものの、事前に待っていてほしいとメールする勇気がなく、定時になったらダッシュで彼の部署に行き、呼び出そうと思っていたのだ。
バッタリ会ったタイミングで待っていてほしいと伝えられたことで、幾分か気持ちが軽くなった。
しかも彼は「マジで!?わーい、嬉しい!そりゃ楽しみにしてるわー」と言ってくれたのだ。私はもう天にも昇るような気持だった。
午後も相変わらず仕事は手につかず、いそいそと定時になるのを待った。
そして定時になったと同時に彼の部署へと小走りに向かう。
扉から顔をのぞかせると、私に気付いた彼がこちらへ駆け足で向かってきた。
「お、わざわざ持ってきてくれたの?サンキュ!後でゆっくり開けさせてもらうな」
彼はそう言うと、私が持っていたチョコレートの入った袋をひったくって、また駆け足でデスクの方に戻ってしまった。
あっという間の出来事で、私はあっけにとられて固まってしまった。
何も話す事すらできず、ただ彼にチョコレートを、文字の通り「渡した」だけになってしまった。
そりゃないよ、と思い、へなへなとその場にへたり込みたい気持ちになったが、そんな事、会社の中でできるはずもなく、私はしばらくその場に突っ立っていた。
いつまでもその場を動かない私が、もしかしたら彼の視界に映ったのかもしれない。
スマートフォンでも見る事ができる社内のチャットに、彼からメッセージが届いた。
「ごめん、さっき、ちょっと手が離せなかったのと、うちの直属の上司、色々詮索してきて面倒なタイプだから、そっけなさすぎたかな、とは思ったんだけど・・・。もうちょっとで仕事片付くから、この前お茶した駅前の喫茶店で待ってて」
垂直に落ちるタイプのジェットコースターよろしく私のテンションが急降下してしたものが、今度はロケットのごとく急上昇した。好きな人の態度ひとつで一喜一憂の振れ幅がとんでもない事になる。これも、まるで子どもじみていて、自分でも「こんな自分がまだ残っていたとは」と苦笑してしまった。
気を取り直して駅前の喫茶店で彼を待っていると、30分ほど経って彼が姿を現した。
「ごめんごめん」
と言いながら登場した彼のスーツが少しよれていて、ネクタイも曲がっており、慌てて飛び出してきたんだというのが手に取るように分かり、私は得も言われぬ喜びに包まれた。
「いやいや、いいの。私の方こそ、ごめんね。突っ立ってたの、見えた?」
そう聞いてみると「ちらっと視界の端にな。あれ、まだ何か用があったのか、それとも言いたいことでもあるのか、なんだろ、と思ったんだけど、ちょっと本当に急いでて・・・」と答えた。
言いたいこと、と言われてハッと告白せねばならぬことを思い出し、身体が固くなる。
このまま勢いに任せるか、と思ったのだが、次の瞬間私の口をついて出たのは「大丈夫、大丈夫。気にしないで。それより、チョコレート、開けてみて」だった。
彼が包みを解いてチョコレートの箱が姿を現した。
薄いチョコに塩が振りかけてあるイラストが描かれていた。
「それね、このバレンタインの間しか輸入しない、オーストリアのザルツブルクの塩チョコレートなの」
簡単に解説を始めてみた。
「でね、色々お店を回って、沢山試食させてもらって、これがピンときたの。珍しいっていうのもあったんだけど、美味しくて。それで、これにするしかないって決めたの。大好きな人とこの美味しさを共有したいと思ったから」
って、あれ?
私は、今、大好きって・・・!
話の流れで気付かぬうちに「大好き」などとのたまってしまった事にハッと気づいて「大好きっていうのは、ほら、その、あの」と恐慌状態に陥ってしまった。
「え、大好き・・・?」
彼の方からも聞き返されて、私はいよいよ恥ずかしくなってしまった。
しかし、くよくよしないのが私の長所だ。
ここまで言ってしまったら、あとはもう「えいや」に頼るしかない。
「そう、大好きなの!好きなんです!付き合ってくれませんか?」
半分怒鳴るようにそう伝えた。
彼は私の勢いに驚いたのか、何かの拍子に思わず「そうか!それは是非ともよろしくお願いします」といった具合の事をつぶやいてしまった。
かくして、私たちは晴れてカップルとなった。
なんだか最後はドタバタだったが、チョコレートの力が背中を後押ししてくれたおかげで、彼の心を射止める事ができたのだった。