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母への甘え~日常系 おすすめ小説


朝は意地悪、なんていじらしい一文を、どこかの文豪は小説の中で書いたという。

けたたましい音を立てて睡眠を邪魔してくる携帯のアラームを切ってから、もうだいぶ時間が経過していた。

温かい掛け布団の中でまどろんでいた悠子は、もそもそと顔を出した。
枕元に置いている携帯を手繰り寄せて、時間を確認する。

室内の空気はひんやりしていて、ちょっと布団から顔や手を出すだけであっという間にそれらが冷えていくのを感じた。

起きたばかりで、目の焦点が合いにくい。
ぼんやりとした不明瞭な視界が鬱陶しくて、悠子はいかにも不機嫌そうに細めた目で眩しい画面を睨んだ。

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時刻は、7時34分。

画面に表示されるその数字を確認した瞬間、悠子の心臓が跳ねた。
反射的に勢いよく布団を跳ねのけ、飛び起きる。

悠子の通う高校は、最寄り駅から5つ先にある。
普段なら7時前後に起床し、ゆっくり身支度を整えてから、7時45分頃に家を出るのだ。

出かける時間を過ぎていなかったことは不幸中の幸いだが、それにしたって寝坊は寝坊だ。

さっきまで眠気でぼんやりとしていたのが嘘のように、悠子は鬼気迫る表情でパジャマを脱ぎ捨て、肌着と制服を荒々しく引っ掴んだ。

頭の中は、寝坊したことへの焦りと苛立ちでいっぱいだった。

正確に言えば、寝坊してしまうくらい自分を放置していた母親に苛立っていたのだ。

「お母さん、なんで起こしてくれないのよ……!」

思わずこぼれた母を責める独り言にも、これでもかというほど怒りがにじんでいる。

大急ぎで制服に着替えて食卓のあるリビングに向かうと、悠子の母は機嫌が良さそうにもう夕食の下ごしらえをしていた。

食卓には、目玉焼きを乗せたトーストにサラダ、それに温かそうな湯気を上らせるカボチャのスープが添えてあった。悠子の朝食だ。

悠子が駆け込んできたことに気付くと、母はにこやかな顔で振り返った。

「あら、悠子。今日はゆっくりなのね」

「お母さんのせいで寝坊したんだよ! それもういらないから!」

「え?」

きょとんとした顔が、無性に悠子の癇に障る。

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何やら言いたげな母を無視して、悠子は洗面台に走った。
急いで顔を洗って、肩の下まであるセミロングの髪を梳かす。

せっかく今日は、昨日学校の帰りに買った新しいコテで髪を巻こうと思っていたのに、寝坊のせいで時間がない。
悠子は忌々しげに顔を歪め、鋭く舌を打った。

スクールバッグを掴んで玄関へと急ぐ。
履きならしたローファーに足を突っ込んだ時、後ろから母のおっとりとした声が聞こえた。

「朝ごはん、食べていかないの?」

「だからいいって言ってるでしょ! 時間ないの!」

「あ、じゃあせめてバナナだけでも食べていきなさいよ。何にも食べなかったらお腹空いちゃうから」

「それもいらない!」

怒鳴って玄関のドアノブに手をかけるのと同時に、やっぱりおっとりとした声が「悠子、お弁当」と引き留める。

いつの間にかすぐそこまで来ていた母が、ニコニコと袋に包まれたお弁当を差し出していた。

悠子は黙ってそれを引ったくると、「行ってきます」の挨拶もなしに家を飛び出す。

携帯で時刻を確認すると、7時52分。
これじゃあいつも乗っている電車には間に合わない。

悠子はやり場のない苛立ちを、舌打ちでしかやり過ごすことができなかった。

本当に、朝は意地悪だ。

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一年の計は元旦にあり、という言葉がある。

それが本当かどうかは悠子には分からない。
分からないが、彼女はその言葉に少しアレンジを加えて、「一日の計は朝にあり」、という格言を持論としていた。

ついていない日というのは徹底してついていないものなのだ。
朝寝坊をした時点で、悠子は今日がその「ついていない日」なのだと悟った。

その悟り通り、やっぱり予定していた電車には乗れず、おかげで学校まで全速力で走ることになり、なんとか遅刻は免れたものの、朝の準備がバタバタしていたために1時間目の数学の教科書を忘れてしまっていた。

本当に最悪である。
悠子の苛立ちは朝からずっと収まらなかった。

胸の内では、母への不平不満を延々とひとりごちていた。

――まったく、なんだってお母さんはああ能天気なんだろう。

「今日はゆっくりなのね」じゃないわ。

いつも起きてる時間から30分過ぎても朝ごはんを食べに来ないなんて、その時点で寝坊だと思うでしょ。
というか、起こしに来るでしょ、普通。母親なら。

ああ、イライラする。

こみ上げる怒りを、ため息にしてふーっと吐き出す。

母に苛立つのはもちろんのこと、最近の悠子は、母に対してこんなふうに怒りを覚える自分にも腹が立つのだった。

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昼休みになると、悠子はマイと一緒に中庭へ出た。

マイとはいつも一緒に行動している。明るい栗色の髪をゆるく巻いた少女で、かわいらしい容姿が女子からも男子からも人気だった。

「寒いねーっ。そろそろ中庭でお昼もキツくなってきたかなー?」

マイの言葉に、だねー、と相槌を打ちつつ、お弁当箱の入った袋を開ける。

薄い紫色をしたお弁当箱を開くと、今日も彩の豊かな食材が所狭しと詰まっていた。

真ん中の仕切りを挟んで、右側がご飯、左側がおかずのスペースだ。

ご飯は白米で、隅の方に桜でんぶが花びらの形に彩られている。毎度のことながら、芸が細かい。
おかずは、から揚げに玉子焼き、アスパラガスのバター炒めに、プチトマト。
それに、丁寧に形作られたタコのウインナーが入っていた。

「悠子のお弁当、今日もおいしそう!」

隣から悠子の手元を覗き込んだマイが、はしゃいだ声を上げる。

それが悠子にはなんだか気恥ずかしくて、つい尖った調子で返してしまう。

「そう? 別に普通でしょ」

「でもそれ、お母さんの手作りなんでしょ? いいなぁ、うちなんてコレだから、ほんと悠子のとこが羨ましいよ」

コレ、と言いながら、マイはコンビニで買ったであろう菓子パンを示してみた。

「やっぱ悠子ママは娘愛に溢れてるよね。毎日のお弁当見てるだけで伝わってくるよ」

「もう、やめてよ。いくら愛があったって、うちのお母さんほんと抜けてるし。話しててイライラすることばっかだよ」

「そうなの?」

「そうだよ。聞いてよ、今朝だってさ……」

悠子はマイに、今朝のことを詳細に説明した。

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母が起こしてくれなかったせいで朝寝坊したこと、時間がないと言っているのに悠長にバナナなんか勧めてきたこと、おかげで遅刻ギリギリになり、数学の教科書まで忘れたこと……。

あらかた話し終えた後、マイの口からは意外な言葉が飛び出した。

「ふーん。お母さん可哀想」

「え?」

ぽかんとする悠子の前で、マイはその小さな口で菓子パンにかぶりついた。

「だって、寝坊は悠子がいけないんじゃん? 目覚まし自分で止めて、寝過ごしちゃったんでしょ」

「それは、そうだけど……」

「お母さんが起こしてくれなかったからって言うけど、私たちもう高校生なんだよ? 朝ぐらい自分で起きなきゃ」

事も無げに笑って、マイは菓子パンを食べ進める。

ほんわかしてそうな雰囲気とは裏腹に、マイは時おりこんなふうにズバッと自分の意見を言う。

悠子もマイのそんなところに好感を持っているのだが、今日ばかりはマイのそのストレートな性分に反感を覚えて、つい言い返してしまった。

「そうだけどさ、普段は私ちゃんと自分で起きてるよ? だから今日みたいに寝過ごしちゃった時くらいは、起こしてくれてもよかったんじゃないかなっていうか……」

言っているうちに、だんだんと言葉が尻すぼみになっていくのを悠子は自覚した。

そう、母への苛立ちの正体は、結局ただの八つ当たりなのだ。

朝寝坊したのも自分のせいだし、そのせいで予定の電車に乗れなかったのも自分のせいだし、教科書を忘れたのも自分の準備不足のせいだ。
それらの行き所のない苛立ちが、すべて母に向かってしまっているだけのこと。

母は、何も悪くないのに。

すっかり押し黙ってしまった悠子を見て、マイは取り繕うように笑った。

「ごめん、キツかったね。でも、お母さんにはちゃんと感謝しなきゃダメだよ。毎朝お弁当作るのだって、結構大変なんだろうからさ」

「……うん」

口の中で小さく相槌を打ち、お弁当を食べる。

母の作るお弁当はやっぱりおいしくて、悠子はなんだか急に自分のことが恥ずかしく思えた。

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自宅の最寄り駅へと向かう電車の中、悠子はシートの一番端に座って、帰ったら母になんと言うべきかを考えるともなく考えていた。

確かにマイの言うことは正しくて、自分はもっと母に感謝しなければならないのだと思う。
今朝だって、寝坊して苛立っていたから八つ当たりのようなことをしてしまって、そのくせお弁当だけはきちんと受け取って家を出た。

文句を言うだけ言って、甘えるところは遠慮なく甘える。

自分を恥ずかしく思う原因は、その辺りにあった。

電車が停車して、ドアが開く。気づけばいつも降りる駅に到着していた。
悠子は慌ててシートから立ち、電車を降り立った。

気付けば空は曇天だった。薄墨色のどんよりとした重たい雲が空に立ち込め、よく目を凝らすと小さな雫が落ち始めてきているところだった。

――今日、傘、持ってきてないのに。

どんだけついてない日なのよ、と内心泣きそうになりながら、本降りになる前に走って帰ろうと改札まで急ぐ。

しかし、悠子が改札を通りすぎ、駅の出入り口まで来た時には、雨はもう本格的に降り始めてしまっていた。

天気雨だろうか。バケツをひっくり返したような勢いのある降り方で、雨の雫が容赦なく地面を叩きつける。

なにぶん小さい駅なので、構内にコンビニもない。
駅を出れば近くに小さなスーパーがあって、そこで傘も売っていたと記憶しているが、そこに行くまでにずぶ濡れになってしまうだろう。

ついていない日というのは、最後までとことんついていないものなのだ。

このままここにいても、雨がいつ止むかも分からない。

どうせついていない日なのだから、と割り切って、悠子は覚悟を決め、最低限濡れないようにとスクールバッグを頭の上にかざした。

勢いに任せて走り出そうとした、その時だった。

「悠子ー」

どこからか、聞き覚えのあるおっとりとした声が聞こえた。

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振り返ると、そこには母がいた。
若草色のコートを着て、白いレースの長傘と、いつも悠子が使っているビタミンカラーの傘を持っていた。

唖然とする悠子の前までのんびり歩いてくると、母はいつもの調子でのほほんと語り始めた。

「お母さん、反対口から来ちゃったみたい。悠子、今飛び出そうとしてたでしょ? 間に合ってよかったわ。傘を持ってきたわよ、一緒に帰りましょ」

言いながら、悠子に傘を差し出してくる。

それを無言で受け取ろうとして、でもやっぱりそれは違う気がして。

「……ありがとう」

ぐっと低い声で礼を述べると、聞いているのかいないのか、母はただにっこりと笑った。
母が外を歩きだそうと、傘の留め具を解いて開こうとしている。

言うなら今しかないような感覚を覚えて、悠子は小さな声で「お母さん」と呼び止めた。

「なぁに?」

「朝……ごめん。あたし、イライラしてて、お母さんに八つ当たりしちゃった。朝ごはんも、食べなかったし。……お弁当、ありがとう。あと、迎えに来てくれたのも、ありがとう」

機械的に、礼の言葉を紡ぐ。

他人から聞けば、誰かに言えと強要されているようなイメージさえ与えるだろう。

しかし母は、悠子の言葉が気恥ずかしさゆえにぶっきらぼうになってしまっていることを、きちんと理解していた。

「あら、どうしたの? 急に」

「別に……なんとなく」

「そう」

不機嫌そうに俯いてしまった悠子を見て、母は何やら嬉しそうに唇をほころばせた。

「いいのよ、そんなこと。親子なんだから。お母さんだって悠子くらいの年の頃は、おばあちゃんにいろいろ反発したものよ」

「ほんと?」

「うん」

笑顔で答えながら、さぁ行きましょ、と悠子を促す。

傘を開いて、土砂降りの中を母と並んで歩き出すと、悠子の胸にはもう朝の苛立ちも、昼から続いてたモヤモヤもさっぱりなくなっていた。

素直に気持ちを伝えるだけで、こんなにスッとするものなんだと悠子は驚いた。

歩きながら、母が自分が若かった頃の思い出話を悠子に聞かせてくれる。

雨の音がうるさいのに、母の声だけは悠子の耳に自然と入ってくるのだった。

穏やかな母の声に耳を傾けながら、悠子は母とともに雨の中を歩いていく。

明日はちゃんと自分で起きて、ゆっくり支度をして髪を巻いて、母とおしゃべりしながら朝ごはんを食べよう、と心に決めて。

終わり

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