やるだけの事はやった。
あとは、この縁起物のお守りが奇跡を起こしてくれるのを信じるだけだ。
僕はそう言い聞かせて、呼吸を整えた。
試験会場特有のピンと張り詰めた空気。
衣擦れの音でさえも立てるのを躊躇したくなるような、静謐な空間。
誰もが皆、試験監督の指示と号令を待ち、自分の頭の中に詰め込んだ膨大な知識を脳内で指差しチェックし、自分の心の中に秘めた緊張感と不安感と闘っている。
各人の中では脳みそも心臓も大騒ぎになっているはずなのに、会場の中は不思議ととても静かで、僕はそのギャップがこの独特な雰囲気を作り出しているのかもしれないなぁなどと悠長にそんな事を思った。
自信がある者は落ち着きを払っており、自信が無かったり、準備が間に合わなかったであろう者はおどおどと参考書やノートに目を通している。
僕はどちらかというと前者だった。
そう、やるだけの事はやったのだ。
大学受験の勉強を本格的に始めたのは、部活動を引退してからだった。
それまでは部活人間で、朝から晩までバスケットボールを追い回していた。バスケットボール部には中学から在籍し、約5年間続けてきた。高校2年生の試合で引退し、3年生からは受験勉強に全ての力を注ぐ事ができるようになった。
バスケットボール部で培った努力と根性を生かし、僕は高校の勉強をゼロから始めた。
ゼロからなのだ。本当に、部活しかやってこなかった2年間で、僕はお世辞にも成績優秀とは言えない学力をキープしていた。
単純に時間も体力も気力も勉強のために費やせなかったのだ。
受験勉強を攻略するためには、高校1年生に立ち返ってゼロから勉強する必要があった。
幸か不幸か高校受験もほとんど同じパターンで、中学3年生の秋口に部活動を引退してから、ゼロからと言っても過言でないくらい初歩的なところから死に物狂いで勉強した。
そして爪の先に引っかかるがごとくギリギリで今の高校に入学したのだった。
高校受験と大学受験で、そのレベルに大きな差があるのはもちろん知っていたので、1年弱の準備期間が与えられた事に、僕は少しほっとしていた。
ほっとしていたが、もしや1年でも足りないのでは、という一抹の不安も抱えていた。
模擬試験の結果は惨憺たるもので、志望した大学は合格圏内から外れてしまっていた。
それでも僕は「まだまだこれから」と鼻息荒く、日々勉学に励んだ。
無謀にも国立大学の受験を希望した僕は、5教科7科目の受験科目に対峙しなければならなかった。
数学も英語も、中学卒業レベルでストップしてしまっている僕は、本当にゼロから勉強を始めた。
高校1年生向けの参考書を買ってきて、音読しながら理解していった。
数学はひたすら問題を解いて解説を音読しながら、自分でも説明できるようになるまで理解し、頭に叩き込んだ。
英語にいたっては、ボキャブラリーが壊滅的だったため「雪だるま借金式暗記法」たる暗記方法を取り入れて、着実に語彙を増やしていった。
この暗記法は割とスパルタだが効果絶大で、初日に覚える英単語が10語だとしたら、翌日は、この10語の復讐と、新出単語7個を覚える。更にその翌日には10語と7語の復讐と、新出5語。その翌日には22語と新出3語。といった具合に、雪だるま借金のように、それまでに覚えた単語を必ず復讐しながら新しい単語を増やしていくというものだった。
日が経つにつれて、復讐しなければならない単語が増えるので、復讐だけに相当な時間を割くようになっており、しんどかった。
それでも僕は根性には自信があったので、この苦行をこなしきった。
1年間で増やした語彙はすさまじく、これだけで長文読解がかなりラクになった。
国語も、現代文はセンスとフィーリングである程度の点は取れたが、古典はちんぷんかんぷんだったので、これに関しても語彙を増やし文法を理解するところから始めた。
結果、現代文よりも確実に点数を稼ぐ事ができるようになった。
選択科目では、物理と化学、それから日本史を選択した。
もともと理科は好きだったし、覚えなくてはならない事の量が社会科系と比べて圧倒的に少なく、実験など実際に手を動かして学習してきた授業に関してはさすがに記憶が明確だったため、睡魔と闘った記憶しか無い社会よりも勝機があった。
日本史は、単純に戦国武将が好きだったので、選んだ。
世界史よりも覚える事が少なそう、という予想もあり、聞いた事もないようなカタカナの人名や地名を覚えるよりも、耳慣れた日本語で攻めようと思った。
それにしてもあまりの科目の多さに辟易してしまった。
点数を伸ばさなければならない科目と、その見込みと、自分に残された時間と、そのあたりのバランスをとるのが非常に難しく、いくら根性がウリの僕でも、時には疲れが出る事もあり、模擬試験の点数が伸び悩んだりするとやり場のない感情に襲われたりもした。
それでも、これが受験ってやつだな!と割り切り、頑張り続けた。
そんな僕の頑張りを、家族も応援してくれて、母は健康管理に気を遣ってくれたし、父は専門が物理だったので僕の分からない問題を分かりやすく解説してくれたし、妹はお手製のマフラーを作ってくれた。
そして応援してくれたのは家族だけではなく、僕の憧れの、尊敬してやまないバスケットボール部の先輩も同じだった。
先輩は本当にすごい方で、バスケットボールで超優秀な選手だったというわけではないのだが、部長をきっちりと務め上げ、エースのサポートを得意として、エースの選手の信頼も厚く、シュートなどをバシバシ決めるわけでなくても、押さえるところはきっちり押さえ、チームには欠かせない存在だった。
僕が先輩を尊敬してやまない最大の理由はその人柄だ。
同期からも後輩からも慕われ、先生からも信頼が厚く、典型的な「頼れる先輩」だった。部活動の中で上手くやっていけない部員を見かけると、放っておけずに声をかけ相談に乗り、やめようか続けるか迷う部員に正しい選択を促した。
そうなのだ。そこにしびれたのだ。正しい選択が部活動をやめる事なのか、続ける事なのか、それは本人にしか分からない。本人にとってどうなのか、ここが大事なのだ。
通常、部活動の部長ともなれば、やめたいと言い出した部員は説得して残るように促すのが一般的だろう。それが、先輩は相談者の相談をとことん聞いて、正面から向き合って「お前はどうしたいんだ」というところを本人に問い、自問自答を促した。そして「部のことを思って迷ったり悩んだりしているならば、それは一旦頭から外せ。一番大事なのは、自分がどうしたいかだ。部のことを理由にも言い訳にもするな」と目を見て語った。
僕は一度も部活動をやめようと思った事は無いが、たまたま先輩がやめたがっている後輩と話している現場に居合わせて、完全にしびれてしまった。
こんな器の大きな人間に自分もなりたい、とその時強く思った。
それから先輩は僕の人生の師匠になった。
そんな尊敬してやまない先輩に、僕も何度か人生相談をさせてもらったりしてお世話になった。
そして、その先輩がいるから、という理由だけではないが、僕の志望校は先輩が1年前から通っている大学になった。
志望する学部は違ったが、同じ大学を受験するという話をしたら、先輩はとても喜んでくれて、僕にお守りを渡してくれた。
「これ、俺が受験の時にももってたやつなんだ。だからご利益あるぞ~」
そう冗談めかして笑いながら手渡しされたお守りは、僕にとっては冗談でも何でもなく本当にご利益があるように思えた。
先輩は「これは縁起物なんだ。合格祈願で有名な神社にばあちゃんがお参りに行ってくれて、その念が入ってる。ま、そのままばあちゃんの形見になっちゃったんだけど。あ、だから大事なもんだからあげるわけにはいかねえんだ。つまり、お前はこれを俺に返しに来なくちゃいけないってわけ。分かった?4月になったら4棟まで届けにこいよ」と言った。
「4棟?」と聞き返すと「俺がいつもいる講義棟」と言ってニヤッと笑った。
僕は何か絶大なパワーを手にしたような気分になってより一層受験勉強の追い上げに熱が入った。
憧れの先輩からもらった、大事なお守り。
これさえあれば合格間違いナシ、という気分だった。
しかし現実はなかなか甘くはない。
やはり5教科7科目という尋常でない数の受験科目は、僕に与えられた限られた時間では十分にカバーするのが難しかった。まして、二次試験では更に専門的な内容を聞かれる科目試験が控えている。
勉強を始めた当初はうなぎ上りに上昇した僕の模擬試験の点数も、ある一定のレベルに達すると頭打ちになったかのように横ばいを続けた。いわゆる「伸び悩み期」というやつだ。
志望大学に入れるかどうかの目安になる判定は、受験勉強を始めた当初の絶望的なものから合格ギリギリラインにまで上がっていた。
それでもギリギリだ。
もう少し、もう少し伸ばせば安心して受験に臨めるのに、僕はそう思いながら歯を食いしばって勉強を続けた。
結局僕の模擬試験の点数はその後奇跡な急上昇を見せることなく、ギリギリラインのまま受験当日を迎えることになってしまった。
それでも僕は当日まで前進することを諦めなかった。
最後の模擬試験から2ヶ月。
この2ヶ月の間に、僕の学力は更に伸びたはず、と自分に言い聞かせた。
そして僕は、大好きな先輩にもらったお守りを握りしめ、落ち着いた気分で受験会場へ向かった。
独特な静寂を破る試験監督の声が僕の鼓膜を震わせた。
「はじめ」
一斉に空気が揺れる。
カサカサという紙をめくる音、鉛筆を持つ音、衣擦れの音、それまで張り詰めていた空気が再び動き始めた。
僕は試験問題をめくって、落ち着いてまず全体像を捉えた。
どのような順番で、どのような内容の問題が出題されているのか、一問一答式の問題なのか、読解系なのか、時間がかかりそうなものはどれか、勘でも解けそうなものはどのあたりか、などを掌握した。
そして、落ち着いて解答する必要がありそうな問題から着手した。
調子はすこぶる良かった。
最後の模擬試験でつっかえて時間をとられてしまったような問題もスッと理解できて、あまり迷う事なく解答を選べた。単発の、単純に知識を問うような問題も、ほとんど知っているものだった。
これはラッキーかもしれない・・・と思い始めた。
その瞬間、僕の頭には先輩からもらったお守りが浮んだ。
あのお守りのおかげ・・・?
とにかく、先輩と、先輩のおばあさんが僕を見守ってくれているような気がして、僕はがぜんヤル気を出した。
その後も僕の調子は衰えず、他の科目の試験も、あまり目立った失敗や予想外の苦戦などは無く、むしろかなりの手ごたえを感じて試験を終えることができた。
自己採点ができるタイプの入学一次試験だったので、早速翌日発表された解答と答え合わせをしてみると、信じられないことに、過去最高得点をマークしていた。
僕はあまりの嬉しさに、さっそく先輩に報告した。
先輩は勿論喜んでくれたが「気を抜いて二次でやらかすなよ」と笑いながらけん制してくれた。
そう、二次試験で失敗してしまったら元も子もない。
僕は気合を入れなおして、二次試験に向けて一層真剣に勉強に励んだ。
家族の応援にも力が入り、ゲンを担いだ料理が食卓に並ぶ日が増えた。
周りも巻き込んでの受験モードの中で、僕はラストスパートをかけた。
二次試験当日の僕も冴えていた。
直前に復習したばかりの問題で数字を入れ替えただけの問題が出題されたり、得意分野が問題の中心になっていたり、とにかくラッキーだった。
これはもう偶然ではない。やはりこのお守りのおかげだ、僕はそう確信して天を仰いだ。
試験中から手ごたえは十分だったが、それでも合格発表は緊張するもので、僕はドキドキしながら合否確認をした。
結果は合格だった。
よし!と大きくガッツポーズを決めて、家族に合格した旨を伝え、その次には先輩に報告した。
「お守りのおかげっす!」
そう言うと先輩も嬉しそうに「いやいや、お前の実力だよ。おめでとう」と返してくれた。
かくして僕の受験は大成功をおさめ、僕はその年の4月に、先輩に大切なお守りを返した。
そしてどうしてもお礼が言いたいと頼み込み、先輩のおばあさんににも挨拶しに行き、件の神社にもお礼参りに行った。
大学では先輩と同じバスケットボールサークルに入り、高校までの部活動とは少し違う、趣味として楽しむバスケットボールを満喫している。この大学に入学できて、先輩とまたバスケットボールができて、本当に良かったと心から思う日々である。